社員の声

社員の声

Bさん 「家族が元気の源」

  私は、1月の雪の降っている寒い日に、大阪市西区にある病院で生まれました。母親に陣痛が起きてから生まれるまでに15時間位かかったそうです。ようやく生まれたと思えば、全く泣かず、顔色もチアノーゼ(血液中の酸素が不足し、皮膚や粘膜が青紫色になる症状)が出て茄子みたいに紫色だったので、病院の先生が異変に気付き、すぐに救急車で当時福島区にあった大学病院に転送されました。転送先の病院で詳しく検査をした結果、先天性の心臓病であることがわかりました。その当時、両親は医師から「この子は成人まで生きていられるかは難しい。まずは3歳になるまでが正念場」と言われたそうです。

  その後、3歳になるまでは本当に大変だったらしく、泣くとチアノーゼを引き起こして、そのまま死ぬ恐れがあったため、両親は私を泣かさないようにするために、1日中、祖母と交代で抱いていたそうです。また一般の赤ちゃんが10分ぐらいで飲むミルクも、私の場合、3時間から5時間ぐらいかかっていたらしく、ようやく全部のミルクを飲み終えたころには次のミルクの時間になっていたそうです。
  3歳を過ぎても体が弱く、風邪をこじらせては肺炎になり入退院を繰り返したり、6歳までに3回の手術をしたりする等、母親や祖母には本当に大変な思いをさせました。

  子どもの頃の記憶はあまりないのですが、母親と手をつないで一緒に病院に行き診察や検査が終わった後に、病院の売店で本やお菓子を買ってもらうことがすごく楽しみだったことを覚えています。あまり思い出したくないことは、入院中同じ病棟の仲の良かった友達が、「手術の失敗や薬の副作用で亡くなった」と母親達が話していたことを聞いた時の悲しみで、今でも鮮明に覚えています。

  小学校低学年の頃は、親がとても私の体のことを気遣ってくれていて、体育やプールもほとんど見学していました。また、遠足も保護者同伴でないと行けませんでした。
  そんな色々な制限があって、子どもの頃は今の性格とは正反対でとてもおとなしい子どもだったような気がします。しかしその反動があり、小学校高学年からは親が心配しても、体調が悪い時でも友達と野球やサッカーなど、色々なスポーツをするようになりました。今から考えると病気だからといってやりたいことをがまんするのが嫌だったし、他の人たちと同じように色々なことを無理してでもやりたかったんだと思います。中学・高校生の時はちょうど反抗期と重なり、親の意見やアドバイスを一切聞かずにアルバイトをしたり、夜遊びをしたりしていました。もうこの頃になると、自分が障がい者(心臓病)という意識はほとんどなく、病院の定期通院も親には「行く」と言って実際はほとんど行かなかったりと、全く体のことを考えていませんでした。
  それでも時には、自分の障がいの事で悩むことがありました。
  たとえば、人より体が小さくて背が低いことや、身体に多数の手術の傷跡があることで、海やプールに誘われた時には、とても悩みました。

  社会人になってからは、誰にも負けたくないと思う気持ちが一段と強くなりました。私は当時すでに家庭をもっていましたが、勤務時間が長く仕事がハードだったため、ほとんど家に帰らずに会社に泊まる毎日でした。その甲斐(?)あって、20代で某飲食店の管理職をさせてもらえるようになりました。
  しかし、そんな生活が続いていたことで疲労が蓄積され、ある日、仕事中に階段を上り下りしていると急に周りが真っ白になり、鼓動が激しくなりました。その時は少し休憩すると、治ったので「気のせいかなぁ」と思っていましたが、その日からそのような症状が日に日に多くなり、ひどくなっていきました。最終的には寝室からトイレまでの短い距離さえも歩いて行けなくなりました。それで自分でもこれはだめだと思い、約10年ぶりに病院に行きました。
  主治医に「なんでここまで、放っておいたんや」ととても怒られ、すぐに検査をしてもらいましたが、検査後、主治医から「早急に入院して手術しないと、寝たきりの状態でも2年生きられるかわからない」と宣告されました。宣告を受けた時はとてもショックでしたが、自業自得だなぁと思いました。
  勤め先の上司に状況を説明しましたが、私が先天性の心臓病だということを知っていたのは、直属の上司1人だけでした。なぜ会社の人たちに障がいのことを言っていなかったのかと言うと、周りの人に自分が障がい者だと思われたくなく、障がいがあることで特別扱いされるのが嫌だったからです。また、自分の中で障がいを理由にするのも嫌でした。

  その後、すぐに入院して手術をしましたが症状がかなり深刻だったことと難しい手術だったため、手術中に心肺停止になり蘇生が行われたそうです。手術から約1ヶ月間、意識が回復せず、ICU(集中治療室)に入っていました。 その間に肺炎やICU症候群にもかかりました。
  ようやく意識が戻って目が覚めた時に病院の天井を見ながら一番最初に思ったのが家族のことでした。このまま死んだら何の為の人生だったのかわからない。今まで仕事を口実に好き勝手していて、妻や子どものことを考えず、家族に心配ばかりかけていたと心から反省しました。またそれまでは、自分の障がいをどうしても受け入れられなかったのですが、死の淵から生還したことで初めて自分の障がいを受け入れられるようになりました。

  その後のリハビリは大変でした。体重は30kg台まで減り、足の力が弱っていて歩けない、絶食し喉に管を入れていたので喋れない、注射や身体に負担のかかる検査が毎日続くなど、つらい毎日が続きました。
  しかし、1日でも早く元気になって退院したいと思いリハビリに励みましたが、今の体では仕事を続けていくことができないと思い、会社を退職しました。そして、入院している間、家族にとても迷惑をかけたので、これからは家族を大切にしようと改めて決意しました。
  退院後は、パソコンや色々な知識を身につけたかったので、1年間大阪市職業リハビリテーションセンターに通いました。その時に特別講師で来られていたのが今の会社の上司Aさんです。
  私がNNCを選んだ理由は、その時の講演を聞いていて、Aさんがとても活き活きしていて私にはものすごく輝いて見えたからです。この人と一緒に仕事が出来たらいいなぁと思い、また営業の人材を募集していたことで、働くならこの会社だと直感で思いました。

  私は、現在子どもが4人います。子どもたちが成人を迎えるまでは、何があっても元気で頑張っていこうと思っています。家族が私の元気の源です。
  私は、薬を1日9種類20錠ほど服用しており、色々な副作用と戦っています。春先は、毎日のように鼻血が出るので貧血で倒れないように、調子が悪くなったらすぐに休憩するように心掛けています。また、夏になって暑くなると、薬の影響で脱水症状になりやすいので、こまめに水分補給を行っています。しかし、十分気をつけていても1日の内で体調が極端に変わり、急に体調を崩すことがあります。
  現在の私の仕事は印刷部の工務(生産管理)と営業補助を行っています。またそれら以外に社会貢献チームとプレゼンス向上委員会で活動をしています。仕事でも委員会でも、直接お客様に接することが多い仕事なので、体調が悪くてもお客様の前では常に笑顔と元気な様子を絶やさないように心掛けています。私は今の仕事にやりがいを感じています。誰もが自分のしたい仕事が出来る訳ではないのに、私はやりがいある仕事ができ、自分はとても幸せな人間だと思います。またこの会社には尊敬できる上司や先輩、仲間がいます。みんなそれぞれ色々な障がいを持っていますが、その障がいをお互いに理解し合い支え合いながら業務を行っています。まだまだ色々と課題はありますが、自分たちの会社なので自分たちで働きやすい職場にするために、1つひとつできることから頑張っていきたいと思います。

  

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